トゥレーディアでの訓練は、宙航士に特化したカリキュラムではない。 宇宙空間で実際に船を操縦するなど、しょせん一年生のうちにできることでもないのだ。 主な目的は、地上ではできない過酷な環境での作業体験でしかない。 「ねえねえ、船外服って案外軽いわねぇ」 ジゼルはトゥレーディアに来てからのこの三日間のハードなトレーニングのことなどすっかり頭にないような浮かれた調子で声をあげた。
四日目からは、宇宙港基地を出てローバーを使い、千二百キロメートル離れた銀の海クレーターにある第二ベースまでの移動訓練が始まった。 大気のないトゥレーディアでは、光と陰の境界が揺らぐこともなく、遠くまでくっきりと見える。 厚い大気に包まれたファルファーレでは霞んで見える遠くの山も、目の前の小さな丘も、同じように映るのだ。 「ファルファーレに大陸がほとんど見えないから、あれロデェリア海よね? サッタールの島が見えるんじゃない?」 四人乗りのローバーの後部座席に一人収まったジゼルがまたウキウキと話しかける。 「望遠鏡があれば見えるだろうな」 サッタールはフロントに映し出されている簡単な地図を睨みながら答えた。 本来は詳細な地形図に現在位置をGPSを使ってプロットするシステムもあるのだが、このローバーからは取り外されている。 未知の星に不時着したという想定の訓練なのだ。 「ここからコラム・ソルの誰かに話しかけることはできないのぉ?」 問われて、サッタールは少しだけ顔をあげ、青くみずみずしい惑星をその視界に納めた。 試したことはないから」「ええ? やってみればいいじゃない。 別に禁じられてないんでしょお?」 操縦竿を握っているレワショフが不機嫌に唸る。 ビッラウラに余計な負荷をかけさせたいなら、お前がナビを代われ。 ただし必要限以外、いっさい口を開くな。 酸素の無駄だ」「ナビは代わってもいいけどぉ。 口を閉じるのはむりぃ」「俺たちはストウじゃない。
お前を甘やかすつもりはさらさらない」「えー、ケイだって甘やかしてくれないよお。 極楽クジャクのくせに、甘いのは口だけだもん」 ジゼルはヘルメットの内側で口をとがらせたが、それでもハシバミ色の目を輝かせているのがサッタールにはわかった。 班編成の時、エステルハージが当たり前のようにジゼルとケイを離すのは、この二人の関係を知っているからだろう。 公私混同して訓練を乱すようなふるまいをするほど二人とも馬鹿ではなかったが、それでもレワショフのように苦々しく思う者もいるだろう。 特にここは自分たちのフィールドではないのだ。 サッタールは意識をナビシステムに戻した。 トゥレーディアの直径はファルファーレの六分の一しかない。
地球の月はもっと大きいらしいが、それでも宇宙港を作るには充分過ぎるほど広い。 宇宙港から第二ベースまで、およそ千二百キロの距離を時速五十キロメートルのローバーで三日以内に到着しなければならない。
その間には越えなければならないいくつもの山があり、谷がある。 気を抜いたら何百メートルもある崖から転落しかねない。 ローバーのナビシステムに現在位置が示されなくても、トゥレーディア駐在の宇宙軍は学生らのローバーの位置は常に把握していた。 それでも、救助を呼ぶようなはめにはしたくない。
第二ベースの小さな港から、今度はフィオーレ星系の外縁まで亜空間を飛ぶのだ。 救助を呼んで第二ベースへの到着が遅れれば、その時点でこの実習はリタイア扱い。 亜空間航行と救命ポッドでの脱出訓練は受けられなくなってしまう。 もちろん在学中にリベンジする機会は与えられるが、できれば少しでも先に進みたいのが偽らざる学生たちの心情である。 少しでも距離を稼ぎたいが、夜の部分に入ったらたいして進めない」 サッタールの提案に、レワショフがうなずく。 「できたら中に五百キロは進みたいな」 水、食料、酸素は五日分、ローバーのバッテリーは二千キロ分は走行できるだけ充填されている。 それでも不測の事態に遭難すれば、訓練どころか命さえ危ない。 「でもぉ、万が一通信が途絶えても、サッタールなら助けが呼べるでしょ?」「だからお前は、こいつの能力を頼りにするなっ」 たちまちレワショフの機嫌が低下した。 「そうは言うけどさぁ、究極のバックアップシステムじゃない? サッタールの班でラッキーだったわあ」 ジゼルはケラケラ笑った。 「だが私と一緒だと宇宙軍の心証はよくないぞ」 念のために断りを入れると、レワショフは唸ったが、ジゼルはまた笑う。 別に宇宙軍に入るんじゃないもの」 喋りながらもローバーは急峻な山を回り込み、なだらかな丘を登り下りする。 先ほどまでは見えていたファルファーレは背後の地平線に隠れて、もう見えなかった。